17年前の今日未明、当時はまだ徹夜で仕事をしていて、 阪神・淡路大震災のニュースに驚きました。 最初は、規模の大きさに比べて、被害報道の小ささに気を揉んだものでしたが、 その後、次々に大きくなっていく被害の様子、救助のあまりの遅さ…… そしてその後の援助の見当違い過ぎる方向は、 関東に住んで、何もできないまま、心が引き裂かれるものばかりでした。
昨年3月11日には、多くの人があの日を、さまざまな思いで想起したことでしょう。 けれども、昨年の1月17日付けの東京新聞では、 16年前の災禍の影響から立ち上がれずにいる人々、 そうした人々に支援の手を差し延べ続けている人々のことが、 記事として掲載されていて、深く考えさせられたものです。 見えないところで、いわれなき苦しみを背負わされ続けている人がいかに多いことか…
あの頃にはインターネットでのコミュニケーションはまだ一般的ではなく、 ブログやツイッターなどの発信どころではありませんでした。 ホームページで体験した方の記録を読んだことはありましたが、 それはやはり、ごく少数に限られていたものです。
そして、多くの人が、当時の傷を捌け口もなく抱え続けてきたことが、 最近になってようやく垣間見えるようになってきました。
昨年は…… 凄まじい津波と地震、燃え続ける市街地という大災害。 癒されることのない無数の悲しみに、多くの温かい心が寄せられたのも束の間のごとく、 原発事故という…長い間恐れられていながら、対策が考えられていなかった最悪の事態。
事故への対策は考慮されていなくても、 半世紀以上の時間をかけて周到に準備されていたのは、 情報の時間差操作、錯綜、驚愕と混乱のなかで決して正解には辿りつけない道筋。
言い換えれば「心に植え付ける恐怖心と絶望のタネ」だったと言えるでしょう。
私もまた、いくたびも心にこの「おぞましい人工のタネ」を播かれてきました。 人工であることに気づかず、根をはびこらせ、繁茂させてしまったこともあります。 「心の病」と呼ばれ得る花をつけ、「希死念慮(自殺願望)」という、 なんとも忌まわしい実をつけるタネです。
なんの罪もない植物にたとえて語るのは気が引けるのですが、 人工物の多くは、植物の生態を模倣して造られていると考えています。 とりわけ心に植え付けられる、人間同士が無自覚に肥やし合ってしまうこの「タネ」は、 その根のはびこり方、抜き難さを思うと、非常によく似ているように感じます。 もともと人の心が持っている成分、原初的な不安感や恐怖心を、 猜疑心や自己否定、他者否定、私利私欲、無関心…等々に分解して養分にしてしまうところも。
でも、だからといって、永劫に取り除けないわけではありません! あるとき、不意に抜けることも、枯れることもあることを、 個人的には6年半前、51歳になって間もなく、私は身をもって知りました。 信じられないほどスポンッと、一瞬にして消えてしまったんです。 機縁は「自分のせいじゃなかった」という自覚でした。
これだけ、あからさまに操作されていることが解るようになった今は、 むしろ絶望なんて不可能に近くなっていないでしょうか?
これまで「自分の弱さ」とひとり悩んだり、 「気の持ちよう」とか「病は気から」と他人に言われ続け、 心に絶望をはびこらせてしまっていた多くの人々にとって、 「少しも自分のせいではなかった」と気づくチャンスにならないでしょうか?
まだまだ、この「おぞましいタネ」は播かれ続けると思います。 いえ、ますます勢いを増してばらまかれるかもしれません。
けれども、このタネの正体を知っている人は、以前から少なからずいて、 徐々に、大きな力に集結しようとしています。 今回、初めて正体を知って、強い責任感をもって、 どんな状態であっても、相互に支え合える社会を新たに創ろうとしている人々も、 年齢にかかわりなく、次々に立ち上がっています。
天災はどうすることもできませんが、人間の社会は人間が創るもの。 どんなことがあろうと、生きている今を大切にしていれば、 自分を含めた多くの生きる命を支えていける。
自らの守備範囲がどれほど狭くささやかであろうとも、 そこから、新しい、ゆるやかな未来を創っていきたいと思います。
テーマ:「生きている」ということ - ジャンル:心と身体
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