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石の下にも5年かも
慢性疲労症候群と診断されてから、いろいろな方面に関心が広がりました。石の下に閉じ込められている方々が大勢いらっしゃるのだと思います。病名にこだわらず、思うことを記していきたいと思います。
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南房は少し涼しいです
今日は移動日だったんですが、昨夜まで、
全然、動けそうな気がしなかったんですよね~
ところが、朝になってみると不思議に動ける。
緊張感でコントロールできる感覚が、少し戻ってきたかしら?
もっとも往路は、ほとんど半睡でしたけど。

最近は、過ごしやすい気温だったせいか、
毎日の電話での母は、あまり不安ではなさそうでしたが、
やっぱりクーラーの存在は忘れていて、
家中、窓全開。「クーラーって何だっけ?」
自宅に比べるとここはやや涼しくて、まだ必要はないけれど、
急に暑くなってきたので、一応リモコンの使い方を説明。
同じボタンを押すだけに設定しておかないと難しいので。

今年は使わない方がいいのかもしれないけれど、
窓全開も心配といえば心配なんですよね。

毎日、2回電話で話しているし、
会話ができるのはとても貴重なことと判ってはいても、
直接話していると、私が誰なのかが混乱してくるのが判ります。

共有していたはずの記憶を話せないことは、
なんというか、深いところで哀しいものだな……と。
それ以上に哀しいのは、母自身が、
有能で行動的で、てきぱきしていた自分自身をあまり覚えていないこと。

たぶん、心細さや多感さが似ているからだと思うんですが、
女学校くらいまでから今がいきなり続いていることが多く、
子育てしながら教師もしていたことが、どんどん少なくなっています。
そこをつなぐために「ドラマ」ができてくるんですね。
震災後、戦時の記憶が強く戻ってきたので、
最近のドラマは悲痛なものが多くなったような気がします。

私も心を鍛えておかないと、同じ話の連打に参りそう~
毎回、楽しそうかつ真剣に聴かないとすぐにバレちゃいますから。

それでも、こちらに来ると、
空の見える大きな窓のある部屋で横になっていられて、
窓を開ける必要も、クーラーの必要も感じなくて済むので、
私の身体は少し楽になります。
前回、それがまったくなかったので動けなくて困ってしまったけれど、
今回は大丈夫そうな気が……と、いったん爆睡してから言ってますが(^^ゞ

母も、長年の間、怖じ気づく気持ちを奮い立たせて、
気丈にてきぱき動いてきたことが、今、まざまざと判ります。
私の年代の頃には、ひとりでどこへでもさっさと出かけ、
東京→小笠原諸島(父の赴任先)→佐賀県(実家)の三重生活。
「おかあさん、今、どこにいるの?」ってよく訊かれたんですけど、
私も把握できていないことが、よくありました(^ ^;)

誰でもそうなのかもしれませんね、きっと。
そのときには怖じ気づく気持ちなんて、
行く先々で起こる賑やかなことに隠れて、
小さくて自覚さえしないほどでも、
全然ないっていうわけじゃなかったんだな~と思い知ります。

こんな病気が、若いうちに発症するようになったことは、
信じられないくらい哀しいことです。
以前は、こんなことはなかったはずなんですよね。

老年期にはあったけれど、発症平均年齢が54歳なんて。
若い人が少なくなっているというのに、
54歳を境に発症している人が同数ということですから、
若年層にどれほど増えているのか……

周囲の理解やケアがどんなに充実して、
少なくとも日常の不安は取り除けるようになっても、
本人の心の奥の悲哀はどうしても消せないことが、
身近にいればいるほど判ってしまいます。

母には間に合わないかも知れないけれど、
早く完全な治療ができるようになることを祈っています。
すごく多くの最先端の研究者が探求を続けているので、
いつか必ず、その日が来ると信じています。
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テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

認知症の人や子どもたちの情緒不安定
被災地の方々はもちろん、被災のなかった全国でも、
小さな子、障碍のある方、認知症の方々は、
大きな不安を抱えてしまったことでしょう。

アルツハイマー病の母も、
このところ激しい変動の波を体験しています。
体力的には軽度で、アリセプトを服用するようになってからは、
非常に落ちついていたのですが、あたかも服用前のような状態に逆戻り。

さらに、初めての人前での排便、就寝中の尿失禁があり、
プライドも大きく傷ついてしまったようです。

認知症は、記憶を失う病ではなく、
すべての記憶を消すことができず、
適切なときに引き出せない病だそうです。
記憶に対して、不随意になってしまうのですね。

そのため、激しい感情の変動にさらされてしまい、
しかも、それが心の通りには表現できないのです。

母も、ここ数日は、
感謝→不機嫌→落ち込み→嘆き→不安を、
まったく順不同に、予想できない形で繰り返しています。

最初に私が驚いたのは、いきなり深い不安と恐怖に陥ったときでした。
私が仕事ばかりで一緒にいられなかったため、
ずっとテレビを見続けていたんですね。
そして、アメリカの援軍が到着。むしろ心温まる映像だったはずです。

ところが、母は急激に66年前に戻ってしまっていました。
布団をかぶって泣いている母に、理由をたずねると、
「もう、日本はダメになる……」と言うのです。
「いや、確かに大変な事態だけど、ここは今のところ何もないし大丈夫だよ」と言っても、
「だってアメリカが、あんなにたくさん来ちゃったんだから」
「あれは助けに来てくれたのよ、すごく助かることなのよ」
「それは、あなたの考え方。私はそうは思わない!」
「…………え~と」
「もう、日本はなくなっちゃう。占領されてメチャクチャになる!」

笑い話のようですが、そのとき母は紛れもなく17歳の少女で、
深刻にそう感じていたのです。
私は、どんな立場をとっていいか判らず、とにかく現実を語るしかなく……
今になって思えば、先生になればよかったのかな?
「なに言ってるの! これからの日本は貴女たちがつくるのよ!」とか、
「泣いてちゃダメ! がんばらなくちゃ!」とか?

そのとき、ほんとうに折よく、
その時代を母と共有した同窓生の方がお電話をくださったんです。
一瞬、その方が誰かも(結婚後のお名前なので)分からなかったようですが、
話し始めると、みるみる時代感覚が戻ってきて、
「今、おかしくなっちゃって、娘を困らせちゃってたの~」なんて、
笑って話し始めてくれました(はぁ~~~、助かった)

でも、こんなことがこれからは、さらに多くなることでしょう。
認知症だけの問題ではありません。
10歳以下の子にとっても、あの映像の連続は、
恐怖だけの記憶として残ってしまうそうです。

どうか、そんな方々の突然の恐怖に、苛立ったり怒ったりせず、
不随意の記憶のフラッシュバックだと、理解してあげてください。
優しく「大丈夫」と安心させてあげてください。

これからは、この2011年3月に、
その人が何歳だったかを計算してあげてください。
阪神淡路大震災のときに、何歳だったかも計算してあげてほしい、

どれだけの絶望が、いま、子どもたちの心に植え付けられているか、
ほんとうに、深く考えてあげてほしいと願います。
絶対に「いまどきの若者は」なんて言えないんです!

それだけの絶望を積み重ねてきたのは、大人たちなんです。
今回も、災害だけでない恐怖を未だに振りまいている人々がいます。
責任逃れのためにあたふたしている大人たちも、嫌になるほど沢山います。
そんな人たちの分までも、
きちんと責任を取っていかなくてはいけない、と強く思います。

テーマ:病気と付き合いながらの生活 - ジャンル:心と身体

「認知症」から学ぶこと2
この一週間、ダメダメでした~
(って、その前からずっとじゃん~って気もしますが)
何がダメだったって、気合いが
私から気合いを取ったら……はっきり言って何も残りません。

なんというか、「なにもかも限界!」という感覚が、
なんとか奮い立とうとするたびに、どよ~んと覆い被さってくるんですよね。
非常に鬱状態に近づいてると判っていながら、逃げられない……
せっかく待ちに待った11月だというのに?

でも、振り返ってみると、5年前の11月にこれ一回経験してます。
1ヶ月まるまる「鬱」でした。
病名を告げられて、舞い上がっていたはずの半月が過ぎて(←普通、舞い上がりませんが)
いきなり来たんですよね、理由のない「鬱症状」。
それで、いろいろ「抗鬱剤」を処方していただいたんですが、
どれも身体にも気持ちにも合わなくて、
いくら鬱でもぼ~っとするのは嫌で次々にパスしちゃいました。

ME/CFSの場合、疲労が頂点を過ぎるとこういうことになるのでしょう。
当時は「慢性疲労症候群には鬱病を併発する型とならない型がある」と言われていましたが、
私自身の感覚では、これは「鬱病」ではなかったんですよね。
まあ、セロトニン不足という仮説を信じるなら同じことかもしれないんですが、
薬でどうこうなるものではない、というのが、
いくつかの薬、デパス、セルシンなどを試した後の実感でした。

そして案の定、「抗鬱剤」の服薬をすべて切ってしばらくすると、
この「鬱症状」がす~っと自然に消えたんです。
身体の症状はけっこう激しく強まっていましたが、
12月に入ると同時に、気分がいきなり晴れ晴れしちゃったんですよね。

ところで今年は、その年にとてもよく似た展開でした。
2005年の2月に母が大腿骨を骨折し、やはり千葉にしょっちゅう行ってたんですね。

幸い、母は手術後2週間で奇跡の復活(早過ぎっ!)を果たしたんですが、
(退院したその日から、掃除、洗濯、料理と、くるくる動き回ってました)
その頃は、私自身まだ移動の多い仕事もしていたり、
そのまま寝たきりになった場合のシミュレーションもさんざん考えていたので、
心身ともに激疲労だったんですね。
まだ睡眠薬とも出会っていなかったので、恒常的に睡眠不足でもありました。

今年は、ありがたいことに睡眠不足こそありませんでしたが、
5年ぶりにおそるおそる仕事を再開したところで母の発症があり、
例の「女子高生走り」と仕事が並行することに……

ようやくなんとか落ち着いたところで、一気に疲れが噴出しちゃったのでしょう。
と、理屈では判っていても、症状は止められないということに焦りました~
そんなときに「減薬」を始める私も私ですが

同時に、いったんはかなり落ちついて見えていた母が、
徐々に「怒り」のモードになってきてしまいました。
「腹が煮えてしょうがない」という言葉がしばしば出てきます。
それは当然とは思います。
アルツハイマーは、どうしてもそういう時期のある病気でしょう。
理由はいろいろなのですが、根底には、
考えていることが繋がらないという理不尽への怒りだろうと思います。

ついさっきしたことを覚えていない程度なら笑っていられても、
それを思い出したときの屈辱感が非常に強いのだと思います。

そして、この屈辱感は長期記憶になってしまうのですね。
時間の流れは、見当識障碍のために切れぎれになるので、
かなり以前のことも、いつまでも昨日のことのように鮮烈なんですね。

そういう自分に対しての怒りは、
やはり近くにいる人間に対して転嫁されてしまいます。
しかも、その対象は「定員一名」なんだな~とつくづく思い知らされます。
さらに「転嫁してしまった」という後悔までも、長期記憶になってしまうんですね。

介護は複数の人間で分担すべきといわれますし、
ひとりで背負いすぎは「共依存」と呼ばれたりもしますが、
病気になってしまった人にとっては、振り分けなんて出来ないんですね。
だって、それは当人にとって一番大きな「秘密」なんですから。
「秘密」だから誰にも言わずにいられたらいいけれど、
言わないという選択も出来なくなってしまう……
これこそが「認知症」と一括して呼ばれる病気群の、
最大の苦悩なのではないでしょうか?

私は、唯一の娘だからという理由だけではなく、
「弱い人間」と見なされていたために、
その定員一名になってしまったような気がしています。
母は、苦悩に共振する人間をこそ必要としていたのでしょう。
共にパニックになり、嘆き悲しみ、
それでも若いから体力があり、困難を排除してくれる……
そういう「一名」が必要だったのだろうなと思います。

もしも、そういう人がいれば、
母は先に現実を受け容れ(とにかくこの時期には)、
病気と対峙することができたかもしれません。
びくびくする相手を笑い飛ばして、
励まし、慰める姿勢が取れて「強さ」を獲得できたかもしれません。

現在の母は、たいていの人には軽症で溌剌として見えるはずです。
多少は言葉の辻褄が合わなくても、
そういうときには、自分から病名を相手に告げて笑っています。
「トシだからしょうがないわ~」と言えるんです。
ここまでに、おそらく10年ほどはかかっているだろうと思います。

ほんとうに、ずっと大きな「秘密」だったんですよね。
私自身も「母らしくないな~」と感じたことはいくつかあっても、
病気と結びつけては来ませんでした。

かなり傷つくような言葉を投げつけられたこともありましたが、
まもなく激しく後悔していると謝られることが多く、
まあ、聞き流しておけばいいのかな、と考えていたんです。
実際にまったく期待に添えない娘だったからしょうがないかな、と。

それほど、疎遠な母娘だったんですね。
同居していたのはわずか19年なので、
母はずっと「大人」でしたし、社会的に立派で尊敬すべき人だったけれど、
「そういう面もあったのか~?」くらいに考えていました。

母にとっては、ずっと社会的に不甲斐ないながら、
なんだか奇妙なことに夢中になる変な娘だったのだろうと思います。
「あんたの話は現実離れしててけっこう好き」とか言われていました。

だから、母にとっては、やけに病気に詳しかったり、
動揺のかけらも見せない私は、大きな誤算だったんだろうな、と、
や~っと気づいたのはつい最近、
「あんたは何でも説明できるのねっ!」と切れられたときでした。

ああ、そうか~……です。
最大の秘密を、少しずつ少しずつ打ち明けられたというのに、
私は、ほぼ最初から「よしきたっ」とばかりに走り出しちゃったんですね~
一緒に悩み苦しむという、情感あふれるプロセスをすっ飛ばして。

母にとっては生涯最高の「期待はずれ」でしょう
そのうえ、母の日常的な困難を排除するほどの体力もないって……サ・イ・ア・ク

とはいえ、今さら共感する振りは出来ません。
すでに私の正体はバレバレです。
母に一刻も早く安心してほしくて、
言葉を尽くして自分でバラしちゃった……

心に寄り添うバリデーションへの道を閉ざしてしまったも同然ですね。
しかも、もう一つ大きな問題がありまして……
私は永遠に共感できないと思うんです、
そもそも、私自身を家族から切り離した「オーティズム(自閉症)」傾向のために。

たとえば「人間だったら誰でもそうでしょ?」という類の言葉には、
誰が発したにしても、私はま~ったく反応できないんです。
これも、生まれつきの私の「病」ということになるのでしょう。

自分では「病」とはまったく感じませんし、
むしろ、同時に内在していた「ME/CFS人生」を支えてくれた大切なパートナー、
以前、自分が増えていくまでの経過(4)で書いた「ナズナ」なんですが……

はぁ~、まいったな~、です~
でもま、ここまで書いたことで、気合いが入ったかも
出来ないことは、どうひっくり返っても出来ません。
肚を括って、母の家に行ってきま~す

テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体

「認知症」から学ぶこと1
なかなか更新できないブログです。
今年は、生きのびるだけでも大変な酷暑でしたから、
どんな人もかなりの疲労を抱えてしまっていることでしょう。

日中はまだ酷暑が現在形ですし、台風も続けて発生しているし……
9月は私の誕生月でもあるんですが、
毎年たいていダウンすることになってます

今年も「スイッチオフ」の時間がかなり長くなってしまい、
パソコンに向かうこともかなり少なくなっていました。

そんななかで9月2日に、独り暮らしの母が正式に、
「アルツハイマー型認知症」と診断確定されました。
去年の冬から、短期記憶と感情の混乱がはっきりしていたので、
この診断確定までは長い道のりでした。

ようやく具体的な経緯が書ける段階にたどり着いたので、
覚え書きとして「認知症」について記していくことにします。
例によって長文になると思いますので、
体調のよくない方はご注意くださいませ

電話でしかコミュニケーションのとれなかった私にとっては、
母の変化がはっきりしたのが昨年の12月でした。
月に一度は会っていた弟にとっては、
秋頃から急速に変化が感じられていたそうです。

診断確定されるまでは無治療に近い状態を維持せざるを得ないので、
この9ヶ月は対処法に悩み続けでした。
「血管性」なら、早めのリハビリが重要なはずですし、
「レビー小体型」や「前頭側頭型」の場合には薬そのものが気になるうえ、
あまり放っておくと症状の進行に追いつかなくなってしまうかもしれない……
「認知症」の種類は70~100もあると言われているので、
病名が解るまでは気が気じゃありませんでした。

とはいえ、素人でしかも遠距離にいる私には、
電話での「回想法もどき」と
「リアリティ・オリエンテーションもどき」しか不可能です。
生活上の危険はまるで回避できません。
弟一家も、仕事の繁忙期に加え、義妹のご両親が相次いで病に倒れ、
大変なことになっていました。

そこで、とにかく母の住む市の自治体に援助を求めることにして、
病名未確定のまま、介護度認定と生活支援をお願いしました。
ただ、そのためには、やはり家族が立ち会わなければなりません。

当時、私は幸い症状の寛解期でしたが、
それをいいことに? 数年ぶりに仕事をよちよちと再開したところ。
ひとりで外出は不可能、ベッド上で出来る仕事しかできず、
それも、しょっちゅう横になりながら、という状態です。

それまで移動の頼りにしていた夫は、
不安神経症のピークで、抑鬱と反復性過眠症状の真っ最中。
母の暮らす家に行くための片道3時間の運転は、非常に不安なものでした。

それで、ようやく認定をお願いできたのが2月、
その頃まではバイクに乗っていた母ですが(これも怖かったんですけどね)
バイクが壊れて移動手段がなくなり、本人の不安が大きく跳ね上がったため、
とりあえず、支援器具(シニアカー)を借りるためという名目でお願いしました。

最初の認定は「要支援1」。
でも、シニアカーの利用は無理でした。
操作がタッチパネル式なので、バイクとはまったく勝手が違います。
その頃には、テレビの操作も難しくなっていて、
毎日、見たい番組の時間の前に、電話で誘導する必要があったのですが、
ビデオやリモコンという言葉の意味がすぐには通じないほどでしたから、
新しい機械の操作は不可能でした。

母はもともと意思の非常に強い人で、だからこそ、
父が亡くなってから17年間、慣れない土地で独居を貫いていたのですが、
(夏の家として作った家に、長年住み慣れた東京から引っ越しました)
「これからは歩くことにする!」と宣言し、
いったんは介護認定は水泡に帰したか……とも思えたのですが、
バイクの感覚で歩くということは、
とっさの見当識が失われる病では困難すぎました。
何度も道に迷い、おそらく「徘徊もどき」状態になったようです。

ただ、母の住む千葉県のK市は、とても人気(じんき)のよい土地で、
母が道を尋ねると、必ず車で家まで送り届けてくださったらしいのです。
おそらくは、仕事の手を止めて……ですよね~
私の住む埼玉の都市や東京ではこうは行かなかったかもしれません。
海と山々に囲まれた土地柄なので、
老人が夜まで迷い続ける危険を、地元の方がよくご存知なのでしょう。
多くの見知らぬ方々にご迷惑をおかけして、ひたすら感謝、感謝です

母は、そのことを私に電話で話してくれますし、
毎朝電話すると元気にしているので、かろうじて安全確認ができる形でした。
でも、さすがにこんな状態を続けるわけには行きません。
買い物に不自由を感じさせないためだけにも定期的に通う必要がありますし、
介護認定も、市の担当の方に相談し、6ヶ月を待たずに再申請することになりました。

脳神経内科の予約は4月に取っていたのですが、
初診は予約がいっぱいで、6月でなければ受診できないとのこと。

予約を取るまでに時間がかかってしまったのは、
母を説得することと、家族が付き添えない事情が数々重なってしまったためです。
母には「歳のせいなんだから当然、病院なんて行きたくない!」という気持ちが強く、
「このまま死んだ方がマシ」と何度も泣きながら言っていました。
とにかく「入院は絶対にイヤ」というスタンスです。

高血圧と消化器系の病気でずっとかかりつけだった医師からは、
「投薬管理ができる状態、家族同居または施設入所しないと薬は処方できない」と言われ、
最初は母がひとりでそう告げられたため、かなり腹を立ててしまい、
処方された薬を全部捨ててしまったこともありました。

家族と同居はできない事情があり過ぎなので、
なんとか投薬管理を工夫しようと、あれこれ考えたのですが、
1回分ずつ分けて、ポケットカレンダーに日付毎に入れた薬を、
1日で3日分のんでしまうという事件があり、
(「1日分ずつのんで、3日経ったらまた来るね」と私が言ったせいの失敗)
この方法では無理、と知りました。
降圧剤が入っているので、のみ過ぎも断薬も怖いんです。
この時点では「血管性」の可能性も考えていたので、私が震え上がりました。

そこで、数日私が滞在して投薬管理をしつつ
介護認定を改めていただく手続きをお願いしました。

幸い、市の担当の方は、この頼りにならない家族の事情を汲んで、
流動性ある幅広い「介護」とケアマネージメントも可能な
小規模多機能ホームを紹介してくださいました。
認定のおりる前に前倒しで、毎日1日分の薬を手渡しするとともに、
安否確認や急場の訪問もしていただけることになりました。

その間に、脳神経内科での診断も受けられることになり、
ようやく診断確定に漕ぎ着け、母もまだ治療前だというのに、
急速に安定を取り戻しつつあります。

私の場合もそうでしたが、
やはり「病気だと知る」ということは大きいですね。
母もそれまでは、自責の念と増大する不安、
簡単だったことができなくなった自分への苛立ちで、
病気の症状以外の部分で混乱が強くなっていたのでしょう。
BPSD(Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia)、
すなわち、周辺症状と呼ばれている混乱の一種でしょう。

短期記憶を引っかける場所がなくなっているので、
一連の会話の中では、なにひとつこちらの言ったことは伝わりません。
ところが2時間ほど経つと、驚くほど深い理解に変化するんです。
そして、この記憶は消えません。
「認知」すなわち、認識と知力は完璧です。

ただし、同じ2時間でも、
会話を続けているとこうはならないんですね。
次から次へと情報が変化してしまい、
当人もそれを消化しようと焦ってしまうので、
辻褄合わせのために、いろいろなイメージを呼び出してしまう。
それがアッパーに繋がることも、ダウナーに繋がることも……
ダウナーになると聞き手の私も巻き込まれかけます

これって、もしかしたら、同じ経験を共有しながら、
異なる年齢や立場から見てきた家族ならではの「弱点」かも、ですね。
私自身が一番苦しかった時期のことを、
「あの頃がいちばん幸せだった~」とか言われると、
どんなに話に付き合う心構えでいても、
反射的に「むっ」とした感情が湧いちゃったりしますから。

でも、だからこそ、やむを得ない事情からではありましたが、
同居できないのも悪くなかったかも、と思えるようになりました。

とはいえ、アリセプト開始……
副作用や合わない場合が怖いので、どうしても疑似同居が必要です。
3mgで2週間、それで大丈夫だったら5mgでさらに2週間くらいでしょうか。

その間、夫と猫たちを残して自宅を留守にするのも、
いささか心配な事情がありますし、仕事も一応続いています。
私自身のME/CFSも、この9ヶ月で徐々にまた悪化している気配……

そして、いちばん心配なのは、
その疑似同居を打ち切ることが、果たして可能なのかどうか?

でも、どんなことでも完全に元に戻ることなんてあり得ないかな?
(仮に病気が治ってもその期間分は歳とりますしね、たとえ数日の風邪でも)
先のことを想像しても、その通りになることなんてまずありませんし~

見る前に跳んで、結果はすべて受け容れるしかないですね。
この9ヶ月、3倍速くらいの早さで転変を繰り返している母に、
多くのことを教えてもらえましたし、今もまだ驚きの連続です。

「認知症」と呼ばれている病は、認知の障碍ではなく、
短期記憶、時間感覚、見当識、そして表現の障碍らしい、
と、うすうす解ってきました。
表現できないという点では「閉じ込められ症候群」と呼ばれる状態に
よく似ているような気がします。

今の母の段階では、身体は自由に動きますが(私よりもはるかに!)、
きっと網に絡め取られて身動きできないような
どうしたらよいか解らないという空恐ろしさを感じているだろうと思います。

「ひとりでは何も出来ない」という点では、私と母は同じです。
ほかにも気圧や潮汐に影響されやすかったり、
体温調節がうまくできなくなる、など似ている点は多々あり、
つくづくどちらも、複数の脳神経の故障なんだな~と実感します。

とはいえ人生の83年間を、体力と知力、意思力で乗り切ってきた母は、
今の状態を、そうおいそれとは受け容れられないでしょう。
しかも「アルツハイマー型」は、現時点ではどうしても進行する病気。

私のME/CFSのように、長年の間に繰り返しのパターンをなんとか類推し、
それに合わせて受容していく、というようなことさえ出来ません。
それは、母の「介護」をしていくことになっている私にとっても同様です。
(そもそも介護になりませんよね~、むしろ介護されることになりそう)

何はともあれ、新しいステージと考えて、
目の前の経験をひとつひとつ楽しんでいきます
あ、もちろん、プロの手を大いに借りながら

テーマ:心、意識、魂、生命、人間の可能性 - ジャンル:心と身体



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