この一週間、ダメダメでした~ (って、その前からずっとじゃん~って気もしますが) 何がダメだったって、気合いが 私から気合いを取ったら……はっきり言って何も残りません。
なんというか、「なにもかも限界!」という感覚が、 なんとか奮い立とうとするたびに、どよ~んと覆い被さってくるんですよね。 非常に鬱状態に近づいてると判っていながら、逃げられない…… せっかく待ちに待った11月だというのに?
でも、振り返ってみると、5年前の11月にこれ一回経験してます。 1ヶ月まるまる「鬱」でした。 病名を告げられて、舞い上がっていたはずの半月が過ぎて(←普通、舞い上がりませんが) いきなり来たんですよね、理由のない「鬱症状」。 それで、いろいろ「抗鬱剤」を処方していただいたんですが、 どれも身体にも気持ちにも合わなくて、 いくら鬱でもぼ~っとするのは嫌で次々にパスしちゃいました。
ME/CFSの場合、疲労が頂点を過ぎるとこういうことになるのでしょう。 当時は「慢性疲労症候群には鬱病を併発する型とならない型がある」と言われていましたが、 私自身の感覚では、これは「鬱病」ではなかったんですよね。 まあ、セロトニン不足という仮説を信じるなら同じことかもしれないんですが、 薬でどうこうなるものではない、というのが、 いくつかの薬、デパス、セルシンなどを試した後の実感でした。
そして案の定、「抗鬱剤」の服薬をすべて切ってしばらくすると、 この「鬱症状」がす~っと自然に消えたんです。 身体の症状はけっこう激しく強まっていましたが、 12月に入ると同時に、気分がいきなり晴れ晴れしちゃったんですよね。
ところで今年は、その年にとてもよく似た展開でした。 2005年の2月に母が大腿骨を骨折し、やはり千葉にしょっちゅう行ってたんですね。
幸い、母は手術後2週間で奇跡の復活(早過ぎっ!)を果たしたんですが、 (退院したその日から、掃除、洗濯、料理と、くるくる動き回ってました) その頃は、私自身まだ移動の多い仕事もしていたり、 そのまま寝たきりになった場合のシミュレーションもさんざん考えていたので、 心身ともに激疲労だったんですね。 まだ睡眠薬とも出会っていなかったので、恒常的に睡眠不足でもありました。
今年は、ありがたいことに睡眠不足こそありませんでしたが、 5年ぶりにおそるおそる仕事を再開したところで母の発症があり、 例の「女子高生走り」と仕事が並行することに……
ようやくなんとか落ち着いたところで、一気に疲れが噴出しちゃったのでしょう。 と、理屈では判っていても、症状は止められないということに焦りました~ そんなときに「減薬」を始める私も私ですが
同時に、いったんはかなり落ちついて見えていた母が、 徐々に「怒り」のモードになってきてしまいました。 「腹が煮えてしょうがない」という言葉がしばしば出てきます。 それは当然とは思います。 アルツハイマーは、どうしてもそういう時期のある病気でしょう。 理由はいろいろなのですが、根底には、 考えていることが繋がらないという理不尽への怒りだろうと思います。
ついさっきしたことを覚えていない程度なら笑っていられても、 それを思い出したときの屈辱感が非常に強いのだと思います。
そして、この屈辱感は長期記憶になってしまうのですね。 時間の流れは、見当識障碍のために切れぎれになるので、 かなり以前のことも、いつまでも昨日のことのように鮮烈なんですね。
そういう自分に対しての怒りは、 やはり近くにいる人間に対して転嫁されてしまいます。 しかも、その対象は「定員一名」なんだな~とつくづく思い知らされます。 さらに「転嫁してしまった」という後悔までも、長期記憶になってしまうんですね。
介護は複数の人間で分担すべきといわれますし、 ひとりで背負いすぎは「共依存」と呼ばれたりもしますが、 病気になってしまった人にとっては、振り分けなんて出来ないんですね。 だって、それは当人にとって一番大きな「秘密」なんですから。 「秘密」だから誰にも言わずにいられたらいいけれど、 言わないという選択も出来なくなってしまう…… これこそが「認知症」と一括して呼ばれる病気群の、 最大の苦悩なのではないでしょうか?
私は、唯一の娘だからという理由だけではなく、 「弱い人間」と見なされていたために、 その定員一名になってしまったような気がしています。 母は、苦悩に共振する人間をこそ必要としていたのでしょう。 共にパニックになり、嘆き悲しみ、 それでも若いから体力があり、困難を排除してくれる…… そういう「一名」が必要だったのだろうなと思います。
もしも、そういう人がいれば、 母は先に現実を受け容れ(とにかくこの時期には)、 病気と対峙することができたかもしれません。 びくびくする相手を笑い飛ばして、 励まし、慰める姿勢が取れて「強さ」を獲得できたかもしれません。
現在の母は、たいていの人には軽症で溌剌として見えるはずです。 多少は言葉の辻褄が合わなくても、 そういうときには、自分から病名を相手に告げて笑っています。 「トシだからしょうがないわ~」と言えるんです。 ここまでに、おそらく10年ほどはかかっているだろうと思います。
ほんとうに、ずっと大きな「秘密」だったんですよね。 私自身も「母らしくないな~」と感じたことはいくつかあっても、 病気と結びつけては来ませんでした。
かなり傷つくような言葉を投げつけられたこともありましたが、 まもなく激しく後悔していると謝られることが多く、 まあ、聞き流しておけばいいのかな、と考えていたんです。 実際にまったく期待に添えない娘だったからしょうがないかな、と。
それほど、疎遠な母娘だったんですね。 同居していたのはわずか19年なので、 母はずっと「大人」でしたし、社会的に立派で尊敬すべき人だったけれど、 「そういう面もあったのか~?」くらいに考えていました。
母にとっては、ずっと社会的に不甲斐ないながら、 なんだか奇妙なことに夢中になる変な娘だったのだろうと思います。 「あんたの話は現実離れしててけっこう好き」とか言われていました。
だから、母にとっては、やけに病気に詳しかったり、 動揺のかけらも見せない私は、大きな誤算だったんだろうな、と、 や~っと気づいたのはつい最近、 「あんたは何でも説明できるのねっ!」と切れられたときでした。
ああ、そうか~ ……です。 最大の秘密を、少しずつ少しずつ打ち明けられたというのに、 私は、ほぼ最初から「よしきたっ」とばかりに走り出しちゃったんですね~ 一緒に悩み苦しむという、情感あふれるプロセスをすっ飛ばして。
母にとっては生涯最高の「期待はずれ」でしょう そのうえ、母の日常的な困難を排除するほどの体力もないって……サ・イ・ア・ク
とはいえ、今さら共感する振りは出来ません。 すでに私の正体はバレバレです。 母に一刻も早く安心してほしくて、 言葉を尽くして自分でバラしちゃった……
心に寄り添うバリデーションへの道を閉ざしてしまったも同然ですね。 しかも、もう一つ大きな問題がありまして…… 私は永遠に共感できないと思うんです、 そもそも、私自身を家族から切り離した「オーティズム(自閉症)」傾向のために。
たとえば「人間だったら誰でもそうでしょ?」という類の言葉には、 誰が発したにしても、私はま~ったく反応できないんです。 これも、生まれつきの私の「病」ということになるのでしょう。
自分では「病」とはまったく感じませんし、 むしろ、同時に内在していた「ME/CFS人生」を支えてくれた大切なパートナー、 以前、自分が増えていくまでの経過(4)で書いた「ナズナ」なんですが……
はぁ~、まいったな~、です~ でもま、ここまで書いたことで、気合いが入ったかも 出来ないことは、どうひっくり返っても出来ません。 肚を括って、母の家に行ってきま~す
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